「友達」という概念の獲得|『パーフェクトフレンド』野﨑まど

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野崎まどさんの作品の中で、初めてこの作品を読みました。ジャケ買いというか、平積みされててタイトルが気になったからという理由で、手に取りました。結果として、その当時は知らない作家さんだった野崎まどさんのことを一気にファンになりました。

パーフェクトフレンドは題名の通り、テーマは「友達」です。天才のさなかとその同級生の優等生である理桜はかなりの仲良しです。しかし、さなかは天才過ぎて友達のなんたるかがわかっていなくて、理桜のことを当時は友達とは思っていません。理系の彼女は友達などのコミュニティのことを効率をよくする"システム"としか捉えられなくなってしまっています。

そんなさなかが、様々なイベントを通して友達とは何かについて学んでいく物語です。

また、野崎まどさんの作風だと思いますが、会話のボケ・ツッコミのセンスが自分には刺さりました。

 

足を嘗めてもいいですよ


「あんたって…やっぱ凄いわ」
「足を嘗めてもいいですよ」
「ごめん、そこまでは凄くない」

 

このセリフ、めっちゃ笑いました。小学生がこのセリフを言っていると考えると末恐ろしすぎるのですが、野崎まどワールドを感じさせる会話でした。他にもたくさん面白いセリフはありました。

 

”友達”とは、システム的な現象


「理桜さん。”友達”とは、純粋にシステム的な現象なんですよ。はるか昔に人類が社会生活を始めてから、今日まで無数の友達がいました。友達のグループがありました。それらが長い歴史の中で、文化的に、無意識的に淘汰されて洗練されてきた。それが友達。友達という現象。今私たちが見ている友達とは、”友達”という概念そのものが自然淘汰された結果に過ぎません。いいですか、理桜さん。<私達が四人組の友達>なのは、<キリンの首が長い>のと同じなんです。私たちは、システム上効率がいいという理由だけで友人たり得ている。それこそが第一の問と第二の問の答え」
さなかは理桜の目を見ながら言った。
「問. ”友達とは何か”
答え.人類の効率を向上させるシステム。
 問.”なぜ友達が必要か"
答え.人類の効率を向上させるため。  です」

 

友達の概念に対して、さなかは小学生とは思えないぐらい、冷徹で残酷な考えを持っています。科学者としては正しいのかもしれませんが、理桜と読者の私はだいぶショックでした。

 

あとがきがとても素晴らしい!


自分の<友達>だと思う人がいます。自分の<友達>ではないと思う人もいます。ただその両者は明瞭に区別されたものではなう、一本の直線上に曖昧な境界をもって存在する二つです。喩えるなら友達は<お昼>、友達でない人は<夕方>で、<お昼>と<夕方>はそれぞれを簡単にイメージできますが、じゃあ十三時はお昼か、十四時は、十五時は、十五時半は、と具体的に突き詰めていくと定義は段々ぼんやりしてきてしまいます。十二時と十七時の二人は容易に断言できても、交友関係の中には分けにくい時間に存在する人も多く、というか友達か友達でないかという選択を迫られる自体がなかなか無いので、結局友達とは何なのかを定めないまま活きています。
ですがそもそも概念とは一点を定めるものではなく範囲を定めるものなので、どんな概念にも境界の曖昧さは必ず存在します。そしてその曖昧さが許せないという感情を、小さな頃に持った人も多いのではないでしょうか。「動きやすい服装」で迷い、「食べやすい大きさ」に悩み、世界の曖昧さを憎悪しながらじゃがいもを細かく切りすぎた人もいるのではないでしょうか。いないかもしれませんが。
本作の主人公はじゃがいもではなく<友達>に挑みます。

 

あれ、あとがきってこんなにも納得させられるもんだっけ?これで一つのエッセイでも書けるんじゃない?って思うぐらいとても素晴らしい納得感が得られるあとがきでした。この納得感こそがあとがき。まさに、THEあとがきでした(しつこいな)

さなかが友達をなんだか分かってなかったように、僕たちも友達って曖昧な気がします。最近においてはまったくいないのかも?と思うまでにもなるときもあります。

ただ、その曖昧さ加減が人間らしくてとても好きなんです。

定義できない言葉っていうのは、とても美しいなと思う文章でした。

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