教育の限界を考える|『死なない生徒殺人事件』野﨑まど

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学校に再就職した伊藤先生と生徒の天名は死なない生徒の謎を追うというストーリー。

ミステリー要素は強いが、野崎まどさんの従来どおりのキャラの濃さが出ている上に、文体もとても読みやすい作品だった。

 

感覚を伝えることの難しさ


「味です。味覚というのはとても表しにくい感覚なんです。食べ物の味を人に伝えるのは本当に難しいんですよ。それに味覚自体は化学物質の受容感覚ですが、料理というのは味覚だけでなく、嗅覚・視覚・触覚の複合です。この総合的な体験を過不足無く誰かに教えるのは、一朝一夕で出来ることではありません。可能なら同じものを食べてもらうのが一番なんですけど」

 

食レポの凄さっていうのがとても伝わる。

僕は基本的に「美味しい」とか「アツい」とか、基本的に誰でも言うようなコメントしかいつも発しないし、同じものを食べている相手にはそれ以上の言葉は不要だと感じている。

しかし、食べていない人に対して伝えるとなるとまた別。

なんでもそうやけど、何かを「伝える」というのはかなり難しいことに該当すると思ってて、中でも味覚というのは自分の好き嫌い以外のことで相手に感情を伝える必要がある。

これにおいては、語彙力なども関係してくるんだろうけど、芸能人とかが食べてすぐにコメントして、どう美味しいのかを伝えてるのってすごいんだよなと感じた。

 

教育の限界について


「伊藤先生、先生は教育の限界ってお解りになりますか?」
「教育の、限界ですか?」
「限界というのはその…すいません、どういう意味ですか?」
「伊藤先生は、生徒に、何をどこまで教えられると思いますか?」
「どこまで、ですか。そうですねぇ…例えば…知識はいくらでも教えられると思いますけど。それをどう使うか、どう考えるかは結局本人次第ですからねぇ。特に道徳なんかは顕著だと思うんです。泥棒はダメという事は教えられても、倫理観は本人の中で確立してもらうしかない。人に言われたからでなく、どうして泥棒がダメなのかを自分で判断しないといけないわけで…。だから教師が教えられることなんて、実際は微々たるものだと思いますよ俺は。本当に大切な事は、本人が自力で見つけるしかないのかなぁと…。有賀先生はどう思います?」
「私は、教育の限界は”自分”だと考えています」
「自分?どういうことです?」
「私たちは自分の事しか教えられない、という意味です。どんなに頑張っても、自分の知っている事、自分の持っているもの、自分を構成するもの、そろえ以上の事は一切教えられない。物理的にもそうですし、論理的にもそうです。教育の限界というのは、自分自身という境界なんです」
「自分自身という境界…」
「だから、人にものを教えるときはまず自分が勉強しないといけません。自分が学ぶことと相手に教えることは直結しているんです。インプットとアウトプットの無限の繰り返し。それが教育の本質であり、同時に教育の限界であるものだと、私は思います」
だから毎日勉強ですね、と有賀先生は言った。

 

なんでも小説に書いていることを真に受けて、そうだと思いこむのも感情移入のしすぎな気がするが、これにおいては読んでから時間が経った今でも腑に落ちている。

会社員として、新人教育に携わることがあるが、まさに野崎まどさんのおっしゃっている通りで、自分の知っていること以上には教えられない。

もちろん、教えている(話している)途中で、自分の考えが整理出来たことによって、本来自分が知っていることの一段上のレベルを教えることができたという経験はある。

だがしかし、全く経験がないことを教えることはもちろんできない。

後輩にも、子どもたちに対しても、自分の境界を超えることができるようにインプットとアウトプットの繰り返しを行うことこそが、教育のあるべき姿なのかもしれない。

共感の神経細胞


ミラーニューロンは近年発見された神経細胞の一つである。
人が何かの行動を行う時、それに対応する神経細胞が活動電位を発している。だがミラーニューロンは、自分ではなく他人がその行動しているのを”見た”時に活動電位を発生させる。他人がやっているのを見て、まるで自分が同じ行動をしているように、つまり鏡のように活動することからミラーニューロンと名付けられた。本のタイトルになっている”物まね細胞”の呼称もこれに由来する。
このミラーニューロンは”他人の意識の理解”や”共感”に一役買っていると考えられている。例えば、もらい泣きなんかが分かりやすいだろう。これは他人の悲しむ表情を見て、自分の脳内の同じ感情部分が活性化して起こる現象だ。”見る”行為によって得た他人の感情の情報が自分に影響を与えているのである。

 

人につられて笑ってしまうし、もらい泣きも日常的に発生する。

ポーカーフェイスでいる必要もないし、嬉しくも楽しくもないのに、ニコニコしている必要はないけど、表情や態度は他人の気持ちに影響するというのを意識するべきだなと感じた。

経済的な面や環境的な面では、あまり貢献できないとは思うけれど、できれば他人の気持ちにくらいはいい影響を与え続けたいものだと感じた。

 

 

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