2019年1月になって、もう半月が経とうとしている

早いもんで2019年ですね。

ビジネス上で誰かと会うたびに「あけましておめでとうございます」って言うのっていつまで?と感じながら生きてます。

2018年後半から初めたものの、12月の更新件数は0件でした。

1ヶ月ってはえ〜なって感じてたところ、

年末となり、1年ってはえ〜なと感じました。

そうして、そろそろなにか記事書きたいな〜と漫然と少していた2019年がすでに2週間過ぎようとしていて、愕然としました。

1年間が52週間とすると、52回1週間を漫然と過ごすだけで1年終わっちゃいますからね。そらあっと言う間ですね。

 

今年は充実した年になるといいな〜と思いつつ、

2019年を楽しく過ごすポイント5つを自分なりに考えてみました。

1.アウトプットを中心とした生活に変更する


とくにブログを書いていきたいんですよ本来は。

いざ「書こう!」と思ったときには「何書こっかな〜」なんて状態になってしまってるんですが、生きてると色んなことに色んな感情が湧いていて、もやもやっとした気持ちになることがよくありますよね。

そういった気持ちを言葉にして表現していきたいなと。

そうすることで、単純に人との会話での表現やネタにも使えると思いますし、「自分が今何を考えているか」に着目して、メモでもして記事にしていきたいなと。

最低でも1週間に1回ぐらいは更新できるようになりたいです…。

ちゃんとした記事じゃなくて、この記事みたいな雑なことでもいいやん?な?

 

2.海外に行く


2018年って国外は疎か、国内ですら旅行しなかった1年じゃないかなと感じて、若いうちにもっと色んなところに行って、色んなモノ見てみたいなという気分でして。

そのためにも、今入会しているオンライン英会話頑張りたいですね。

12月が忙しかったからというのもあって、たぶん1回もやってない気がする。

目に見えてたといえば、そうなんやけど、普通にがんばりたい。

TOEICとかの数値で出せるやつも頑張りたい!!

いま多分500点もないぐらいに点数悪いので、せめて600〜700あたりにしたいんですな。点数上げたからって、誰に褒められるわけでもないんですが。

 

3.よく寝る


書いてる段階で1時になろうとしている今、全然眠くないのが問題なのですが、2018年、2時に寝て6時半に起きるみたいな生活が続いて本当に生活習慣病にかかりました。というか、原因不明の口内炎ができまくって、今だに治らないです。

せめて、6時間ぐらい寝れるようにダラダラせずに生活したいなと常々思っているのです。

理想な生活としては、0時には日記を書きはじめて、0時半には寝る。これやな。

 

4.趣味を深める


今のところの趣味としては、

・ラーメン

・アニメ

・映画

・読書

ってあるけど、最近どれも疎かになってて、普通の人並みになってきたような気がしてきた。

これは、アイデンティティが損なわれるというか、とにかく危機な感じがするわけです。趣味でキャラ付けしてどないすんねんという気もしますが、去年は好きなことをする時間がなかったように感じる。

今年は本当に好きな趣味に時間を思いっきり使いたい。

ラーメンも本も映画も週1回は触れていきたい。

 

5.得意な仕事を見つける


IT系の技術的な仕事をさせてもらってて、気づいたことが、自分の得意技というものがない。万遍なく知ってて、全てにおいて詳しくは知らない。

そんな自分からはそろそろ脱却しなければならないと思う。

具体的には、統計の勉強は身につける。

統計検定の2級レベルの統計知識と、モデル作成の実践力。

あとは、人工知能の知識についても語れるようになる。

ディープラーニング協会が主催しているG検定に合格を目指す。

次に、マーケティングの知識。

マーケティングビジネス実務検定B級の合格を目指して、

マーケティング用語の体系的な理解をする。

ここまでを最低限のレベルで達成しなければならないと思っていることです。

できれば、AWSとかセキュリティとか、やりたいこと、勉強したいことは本当にたくさんありすぎて書ききれないのですが、まずは優先順位の高いものから。

 

以上の5つです!本当に普通のことばっかりですね。

誰も見てないと思うので、普通のことを書きました!

まぁ、面白いこと書いて見てもらえるようになるというのも良かったのですが、面白いことなんて全くおもいつかないから無理やなと、即諦めました。

あとは、嫁がほしい。彼女とか飛び越して嫁。

なんか疲れたな〜ってときに優しく包み込んでほしい。

…はい。そんなわけで、がんばって書いていこうと思います。

 

2019年もよろしくお願い申し上げます。

教育の限界を考える|『死なない生徒殺人事件』野﨑まど

[amazonjs asin="B00HEB994G" locale="JP" title="死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~ (メディアワークス文庫)"]

学校に再就職した伊藤先生と生徒の天名は死なない生徒の謎を追うというストーリー。

ミステリー要素は強いが、野崎まどさんの従来どおりのキャラの濃さが出ている上に、文体もとても読みやすい作品だった。

 

感覚を伝えることの難しさ


「味です。味覚というのはとても表しにくい感覚なんです。食べ物の味を人に伝えるのは本当に難しいんですよ。それに味覚自体は化学物質の受容感覚ですが、料理というのは味覚だけでなく、嗅覚・視覚・触覚の複合です。この総合的な体験を過不足無く誰かに教えるのは、一朝一夕で出来ることではありません。可能なら同じものを食べてもらうのが一番なんですけど」

 

食レポの凄さっていうのがとても伝わる。

僕は基本的に「美味しい」とか「アツい」とか、基本的に誰でも言うようなコメントしかいつも発しないし、同じものを食べている相手にはそれ以上の言葉は不要だと感じている。

しかし、食べていない人に対して伝えるとなるとまた別。

なんでもそうやけど、何かを「伝える」というのはかなり難しいことに該当すると思ってて、中でも味覚というのは自分の好き嫌い以外のことで相手に感情を伝える必要がある。

これにおいては、語彙力なども関係してくるんだろうけど、芸能人とかが食べてすぐにコメントして、どう美味しいのかを伝えてるのってすごいんだよなと感じた。

 

教育の限界について


「伊藤先生、先生は教育の限界ってお解りになりますか?」
「教育の、限界ですか?」
「限界というのはその…すいません、どういう意味ですか?」
「伊藤先生は、生徒に、何をどこまで教えられると思いますか?」
「どこまで、ですか。そうですねぇ…例えば…知識はいくらでも教えられると思いますけど。それをどう使うか、どう考えるかは結局本人次第ですからねぇ。特に道徳なんかは顕著だと思うんです。泥棒はダメという事は教えられても、倫理観は本人の中で確立してもらうしかない。人に言われたからでなく、どうして泥棒がダメなのかを自分で判断しないといけないわけで…。だから教師が教えられることなんて、実際は微々たるものだと思いますよ俺は。本当に大切な事は、本人が自力で見つけるしかないのかなぁと…。有賀先生はどう思います?」
「私は、教育の限界は”自分”だと考えています」
「自分?どういうことです?」
「私たちは自分の事しか教えられない、という意味です。どんなに頑張っても、自分の知っている事、自分の持っているもの、自分を構成するもの、そろえ以上の事は一切教えられない。物理的にもそうですし、論理的にもそうです。教育の限界というのは、自分自身という境界なんです」
「自分自身という境界…」
「だから、人にものを教えるときはまず自分が勉強しないといけません。自分が学ぶことと相手に教えることは直結しているんです。インプットとアウトプットの無限の繰り返し。それが教育の本質であり、同時に教育の限界であるものだと、私は思います」
だから毎日勉強ですね、と有賀先生は言った。

 

なんでも小説に書いていることを真に受けて、そうだと思いこむのも感情移入のしすぎな気がするが、これにおいては読んでから時間が経った今でも腑に落ちている。

会社員として、新人教育に携わることがあるが、まさに野崎まどさんのおっしゃっている通りで、自分の知っていること以上には教えられない。

もちろん、教えている(話している)途中で、自分の考えが整理出来たことによって、本来自分が知っていることの一段上のレベルを教えることができたという経験はある。

だがしかし、全く経験がないことを教えることはもちろんできない。

後輩にも、子どもたちに対しても、自分の境界を超えることができるようにインプットとアウトプットの繰り返しを行うことこそが、教育のあるべき姿なのかもしれない。

共感の神経細胞


ミラーニューロンは近年発見された神経細胞の一つである。
人が何かの行動を行う時、それに対応する神経細胞が活動電位を発している。だがミラーニューロンは、自分ではなく他人がその行動しているのを”見た”時に活動電位を発生させる。他人がやっているのを見て、まるで自分が同じ行動をしているように、つまり鏡のように活動することからミラーニューロンと名付けられた。本のタイトルになっている”物まね細胞”の呼称もこれに由来する。
このミラーニューロンは”他人の意識の理解”や”共感”に一役買っていると考えられている。例えば、もらい泣きなんかが分かりやすいだろう。これは他人の悲しむ表情を見て、自分の脳内の同じ感情部分が活性化して起こる現象だ。”見る”行為によって得た他人の感情の情報が自分に影響を与えているのである。

 

人につられて笑ってしまうし、もらい泣きも日常的に発生する。

ポーカーフェイスでいる必要もないし、嬉しくも楽しくもないのに、ニコニコしている必要はないけど、表情や態度は他人の気持ちに影響するというのを意識するべきだなと感じた。

経済的な面や環境的な面では、あまり貢献できないとは思うけれど、できれば他人の気持ちにくらいはいい影響を与え続けたいものだと感じた。

 

 

[amazonjs asin="B00HEB994G" locale="JP" title="死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~ (メディアワークス文庫)"]

『ハーモニー Harmony』伊藤計劃

[amazonjs asin="4150311668" locale="JP" title="ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)"]

生府(せいふ)という名の政府が牛耳るディストピアを描く物語。

体内に入ったWatch meという機械によって徹底的に管理された健康状態を全員が享受でき、傷つくことや病気をすることもない世界に生きる主人公たち3人は何かがおかしいとは感じながら生きています。

生死をテーマにしている点もあり、全体的に暗い雰囲気の物語なのですが、ユーモアかつ知的な会話によって中和され、とても読みやすかったです。最近でいうと、村上春樹さんの『1Q84』を読んでいるときの感覚でした。

 

未来は一言で『退屈』だ


未来は一言で『退屈』だ、未来は単に高台で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう行ってた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。私達は昔の人が思い描いた未来に閉じ込められたのよ

「昔の人が書いた未来に閉じ込められる」なんて素敵な言い回しなんだろうと思いました。伊藤計劃さんのこのかっこよくて、それでいて腹落ちするような書き方がとっても好きです。

 

フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことの出来る力が宿っているんだよ


「若きウェルテルの悩み」っていうの、これ。ミァハはそう言って一冊の本を差し出す。
「この本ってすごいんだよ、何人もの人間を殺したんだ」
本で、どうやったら人が死ぬの。殴るとか。
私がそう訊ねると、ミァハは「若きウェルテル〜」の内容を説明し始める。主人公には好きな女性がいるんだけど、その女は別の男と婚約しているの。だから主人公は最後、叶わぬ恋に耐え切れず自らの命を立つのね、と。
「単にロマンチックなラブストーリーに聞こえるけど」
とわたしは訊いた。
それと、たくさんの人が死んだっていうのは、どう繋がるの」
「本の内容に影響を受けて、似たような境遇の人達が次々にマネし始めたのよ。ウェルテルそれ自身は、作者であるゲーテの実体験を基にしているとはいえ、全くのフィクションだった」
そこで御冷ミァハはにっこり笑って、目の前に本の表紙を突きつける。
「フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことの出来る力が宿っているんだよ、すごいと思わない」

 

本の影響力の強さを訴えかける会話です。

誰も傷つくことの出来ない監視されたディストピアの世界だからこそでもありますが、本で他人を殺すことができることがとても印象深いです。

僕の場合、逆に言うと絶望的状況であっても、一冊の本で希望を持つことができるといった影響力も信じたくなるようなセリフで大変好きな会話シーンでした。

 

なぜ十二時前後にお昼を食べるか、知ってる?


「なぜ十二時前後にお昼を食べるか、知ってる」
「おなかが空くからでしょ」
「キアンはそうじゃないみたいだけど」
「ご、ごめん」
「いや、別に謝ることじゃ」
「そう、謝ることじゃない。いつお腹が空こうがその人の勝手、けれど、学校という空間は人間の生理の勝手を許容するようにはできていない」
「集団生活だからね」
「授業中にご飯食べたっていいと思わない」
そう言われると、ご飯中に雑誌やメディアを見ることは誰にだってあるのに、教科書を読みながらご飯を食べちゃいけない理由がよくわからない。授業中に集中できないから、そうだろうか。退屈さという意味では食事も授業もいい勝負だ。少なくとも、授業の障害になるほど私は父母の作った弁当の味に期待はしていない。
「規律なのよ。こうやって規律は私達の生きる時間を、切り分け、仕分け、制御していくの。ややこしく言うなら、二時か三時におひる食べたいっていうキアンの生理は、規律に抵抗しているんだけど、キアンは規律の側に擦り寄らない自分の生を疎ましく思っている。思ってしまっている。学校の時間割は、昔っからあるものだけれどね、皆が集まって飯を食ったほうが楽しいとか、仕事に便利だとか、そういうのが何となく精緻化されていつしか時間割に、規範になる。健康第一、生命第一。面白いわよね、生活パターンデザイナーなんて、生命主義が蔓延する以前は存在しない職業だったんだから。何となくそうあったものがいつしか取り決めになり、空気になり、規範になり、法律になる。そういう目に見えないものが、今や私達の身体の生理を従わせようとしている。権力が掌握してるのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在の最も秘密の点。もっともプライベートな点」
「誰かの言葉、それ」

 

これ、あまり考えたことなかったけど、小学生からかその前からなのか、いつの間にか僕たちは規律に支配され続けてしまい、規律側に身体の生理を合わせてしまっていることに気付きました。

例えば、12時にお腹が減っていなくても昼休憩の時間になればご飯を食べているし、その時間に身体を合わせれない人は例外となってしまう。それをここでは「権力に生きることを掌握されている」と表現して、死によって逃れることが出来るとしています。

少し極端な表現となっているが、僕にとってはかなり刺さる例え話だったし、深く心に残りました。

[amazonjs asin="4150311668" locale="JP" title="ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)"]

「友達」という概念の獲得|『パーフェクトフレンド』野﨑まど

[amazonjs asin="B00HEB919E" locale="JP" title="パーフェクトフレンド (メディアワークス文庫)"]

野崎まどさんの作品の中で、初めてこの作品を読みました。ジャケ買いというか、平積みされててタイトルが気になったからという理由で、手に取りました。結果として、その当時は知らない作家さんだった野崎まどさんのことを一気にファンになりました。

パーフェクトフレンドは題名の通り、テーマは「友達」です。天才のさなかとその同級生の優等生である理桜はかなりの仲良しです。しかし、さなかは天才過ぎて友達のなんたるかがわかっていなくて、理桜のことを当時は友達とは思っていません。理系の彼女は友達などのコミュニティのことを効率をよくする"システム"としか捉えられなくなってしまっています。

そんなさなかが、様々なイベントを通して友達とは何かについて学んでいく物語です。

また、野崎まどさんの作風だと思いますが、会話のボケ・ツッコミのセンスが自分には刺さりました。

 

足を嘗めてもいいですよ


「あんたって…やっぱ凄いわ」
「足を嘗めてもいいですよ」
「ごめん、そこまでは凄くない」

 

このセリフ、めっちゃ笑いました。小学生がこのセリフを言っていると考えると末恐ろしすぎるのですが、野崎まどワールドを感じさせる会話でした。他にもたくさん面白いセリフはありました。

 

”友達”とは、システム的な現象


「理桜さん。”友達”とは、純粋にシステム的な現象なんですよ。はるか昔に人類が社会生活を始めてから、今日まで無数の友達がいました。友達のグループがありました。それらが長い歴史の中で、文化的に、無意識的に淘汰されて洗練されてきた。それが友達。友達という現象。今私たちが見ている友達とは、”友達”という概念そのものが自然淘汰された結果に過ぎません。いいですか、理桜さん。<私達が四人組の友達>なのは、<キリンの首が長い>のと同じなんです。私たちは、システム上効率がいいという理由だけで友人たり得ている。それこそが第一の問と第二の問の答え」
さなかは理桜の目を見ながら言った。
「問. ”友達とは何か”
答え.人類の効率を向上させるシステム。
 問.”なぜ友達が必要か"
答え.人類の効率を向上させるため。  です」

 

友達の概念に対して、さなかは小学生とは思えないぐらい、冷徹で残酷な考えを持っています。科学者としては正しいのかもしれませんが、理桜と読者の私はだいぶショックでした。

 

あとがきがとても素晴らしい!


自分の<友達>だと思う人がいます。自分の<友達>ではないと思う人もいます。ただその両者は明瞭に区別されたものではなう、一本の直線上に曖昧な境界をもって存在する二つです。喩えるなら友達は<お昼>、友達でない人は<夕方>で、<お昼>と<夕方>はそれぞれを簡単にイメージできますが、じゃあ十三時はお昼か、十四時は、十五時は、十五時半は、と具体的に突き詰めていくと定義は段々ぼんやりしてきてしまいます。十二時と十七時の二人は容易に断言できても、交友関係の中には分けにくい時間に存在する人も多く、というか友達か友達でないかという選択を迫られる自体がなかなか無いので、結局友達とは何なのかを定めないまま活きています。
ですがそもそも概念とは一点を定めるものではなく範囲を定めるものなので、どんな概念にも境界の曖昧さは必ず存在します。そしてその曖昧さが許せないという感情を、小さな頃に持った人も多いのではないでしょうか。「動きやすい服装」で迷い、「食べやすい大きさ」に悩み、世界の曖昧さを憎悪しながらじゃがいもを細かく切りすぎた人もいるのではないでしょうか。いないかもしれませんが。
本作の主人公はじゃがいもではなく<友達>に挑みます。

 

あれ、あとがきってこんなにも納得させられるもんだっけ?これで一つのエッセイでも書けるんじゃない?って思うぐらいとても素晴らしい納得感が得られるあとがきでした。この納得感こそがあとがき。まさに、THEあとがきでした(しつこいな)

さなかが友達をなんだか分かってなかったように、僕たちも友達って曖昧な気がします。最近においてはまったくいないのかも?と思うまでにもなるときもあります。

ただ、その曖昧さ加減が人間らしくてとても好きなんです。

定義できない言葉っていうのは、とても美しいなと思う文章でした。

[amazonjs asin="B00HEB919E" locale="JP" title="パーフェクトフレンド (メディアワークス文庫)"]

シンプル・イズ・ベスト|『世界のトップを10秒で納得させる資料の法則』三木雄信

[amazonjs asin="4492045686" locale="JP" title="世界のトップを10秒で納得させる資料の法則"]

社会に出ると、資料を作らないといけないことのなんたる多いことか。というときに私達は資料の作り方を習ってきたわけではないので、なんとなく見よう見まねで独自の方法で行ってしまいます。

なんとなく踏襲されてきた方法でその場は凌げている可能性もありますが、忙しい人を相手にしたときに、すぐ見てパッと伝わらないようじゃ聞いてもくれません。

そこで、この本のテクニックを使って、より伝わる方法で資料を作成することを提案しています。

この本の言いたいことは、「シンプル・イズ・ベスト」に尽きると思います。キーメッセージとグラフを駆使していかにシンプルに相手に伝えるかをポイントとしています。

最後に付録として記載されていた「資料作成のツボ」が即戦力で役に立ちそうと思えるものが多かったです。

 

全体のキーメッセージを1枚目のスライドに入れる


1枚目のスライドで相手の心をつかめなければ終わり。孫社長は最初の10秒が勝負の決め手だったようです。

「ウリ」を惜しみなく最初に伝えるべき。

 

グラフに凡例は使わない


シンプル・イズ・ベスト。

凡例は便利なように見えて、読み手の「手間」を取らせるクセモノだ。

グラフで何を表しているのかを凡例と照らし合わせているのがそもそもおかしくて、見てすぐにわかるようにプロットエリア内に記載するべき。

 

折れ線グラフは他社と比較して、ナンバーワンを示したいときにも有効


絶対値を示すなら棒グラフですが、変化を伝えるときには折れ線グラフが一番向いている。競合状態の経年変化を示したいときに使うグラフです。

 

はじめての料金表の作り方(基礎)

モノを売る商売には、料金設定をすることが必須です。

私が従事しているITサービスを売る仕事にも、料金設定をしなければいけません。

最近初めて料金表を作成しろと言われましたが、これがまた難しくて、何が正解なのか全然わからないまま手探り状態でやっています。

まぁ、未だにこれが正解というものにたどり着けていないのですが、色々調べつつ教えてもらいつつの情報を一旦まとめておくのは悪くないかと思い、これを書いています。

プラン数とプラン名


プラン数と名前をつけることが重要です。

特にいくつのプラン数に分けるかというところは非常に大切で、お客様が納得のいく値段感で提供できるプランがなければ、せっかくの良い商品(サービス)も売れなくなってしまいます。

よく見るプラン名は、

  • スタンダードとプレミアム
  • ブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナ
  • スモール、ミディアム、ラージ

プラン名は、個人的にはレベル別に1〜xまでつけておくというのもシンプルで好きですが、世間的にはプランには名前をつけておくことが重要みたいです。

 

プランの料金の構成


 

料金  初期料金 商品(サービス)開発や営業宣伝費用の回収する料金
定常(月額)料金 定常的にかかる経費や人件費に対して利益を上乗せした料金
オプション料金 選択肢たプランに加えて利用ユーザー増加や、データ量の追加、機能の追加の料金
制約  プランの変更などを行った際にかかる事務手数料や、1ヶ月に行えるプランの変更回数などのルール
  • 初期料金がサービスによって、あったりなかったりすると思いますが、初期料金は商品(サービス)を開発するときの投資の回収をすることに必ず必要になってくるのではと考えています。
  • 定常(月額)料金は、商品(サービス)の肝だと思います。原価の計算をきちんと行い、予定通りに提供できれば何円の利益を獲得できるのか、が想定できます。
  • オプション料金は、あったりなかったりします。シンプルな料金表にするのであれば、オプションも含めてプランを分けるべきでしょう。また、オプションを付ける場合、初期料金の値段に含まれるか、定常(月額)料金に含まれるかが場合によって異なります。商品(サービス)の提供の仕方と合わせて考えれるとベストだと思います。
  • 制約も必須だと考えます。各プランごとに設けるか、全体で設けるかは場合によりますが、制約のないビジネスなんてありえないと思っています。例えば、最低利用期間は1年間(途中解約は別途x円頂きます)とか、プランの変更には手数料(x円)がかかりますとか、プランの変更は1ヶ月にx回までです。とかそのような制約は必ずあるものだと思っています。

各料金の構成


 

原価 経費 (IT業界SaaSを商品とした場合)データ量 × ID数(ユーザー数)で割り出した 必要なスペックのサーバーや備品、原材料などにかかってしまうお金
人件費 月にかかる作業する人に支払うお金
利益  %単位で表現する。利益率をいくらにするかは会社(個人)の自由ではあるが、 利益を上乗せした料金を見たときに他社とのバランスも考える必要がある。

各料金というのは、どうやって構成されているのかというと、上のような構成となっています。

  • 基本的には、原価 + 利益
  • 原価は、経費 + 人件費
  • 経費はID数で経費がかかるもの、使用データ量でかかるもの、など多々のケースがあるかと思います。今回は用意するサーバースペックによってかかる経費が異なるという前提で記載しています。
  • 人件費は各商品(サービス)を提供するにあたって、必要な作業をする人に支払うお金です。料金の性質によって異なり、初期料金であればプランを伺うときのコンサルタント料であったり、定常(月額)料金は、お客様のサポートをする体制を用意しておくお金などのことです。
  • 利益は、いくら上乗せするかにセオリーのようなものはないかもしれませんが、少なくともマイナスになってはいけないこと、あまりに高すぎる利益を求めて競合よりかなり高い商品(サービス)となってしまう、などはNGと思います。ただし、料金が高いことは決して悪いことではなく、提供する商品(サービス)への自信と考えることもできます。何がそんなに高いのかを顧客が考えることで納得できれば問題なしだと考えます。

 

まだまだ修行中の身ですが、調べつつで今わかっていることは以上のような感じです。どこの企業も同じようなやり方で料金設定は行っているのでしょうが、あまり体系的にまとまった記事っていうのは少なくて、自分でメモをすることにしました。

今後も、深く料金設定について学ぶ機会があると思うので、随時更新していきます。

素朴で純粋ってかっこいい | 『羊と鋼の森』宮下奈都

[amazonjs asin="4167910101" locale="JP" title="羊と鋼の森 (文春文庫)"]

 

感想


主人公外村はとっても素直で、素朴、真面目といった印象で、調律師の才能はまだ開花しきっておらずそこそこですが、努力家なことは周囲にも認められているほどです。この外村と先輩の柳さんのコンビの会話がとても綺麗で、心地よく、読んでいて心が澄んでいくようでした。

物語展開としては全体的に緩やかで、ドキドキハラハラのようなものはほとんどないのですが、なぜか次を読みたくなるようなお話でした。

調律師を題材にしているので、音楽だけではなく音自体の話が多く、なにか音楽を演奏したことがある人にとっては、とても興味深い話が多いと思います。

登場人物に悪いやつがでないことからも、読んで絶対にほっとする一冊となるのは間違いないです。

 

ホームランを狙ってはダメなんです


「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです」 「こつこつ、どうすればいいでしょう。どうこつこつするのが正しいんでしょう」 「この仕事に、正しいかどうかという基準はありません。正しいという言葉には気をつけたほうがいい。こつこつと守って、こつこつとヒット・エンド・ランです」 「ホームランはないんですね」 「ホームランを狙ってはだめなんです」

このじわっと癒やされる感じがとてもすきです。

外村はコツコツ努力をするが、どうすれば正しい努力なのかについて疑問を持っているところにこの会話が出てきます。

なんの世界でも才能によって、早咲きする人がいるものですが、自分の生きている世界、業界でもこんな言葉が聞けたらどれだけ力強いことか、と感じて外村がとても羨ましい気持ちになりました。

 

最後まで気持ちよく鳴る音でなくてはいけない。


「たとえば、うまいレストランがあったとして。
その日の体調や気分にピッタリのメニューを作ってくれたら、そりゃいいよな。でも、その店の良さを信じているなら、自分に合わせて日によって味付けを変えてほしいとか言わないだろ。あ、外村、言う?」
「言いません」
「だよな。そのメニューにこちらが合わせようとするんじゃないか。カッコとしたうまいメニューを食べに行く心意気みたいなものが客の側にもあって然るべきなんだよ。
まあ、レストランだとしたら最初のひとくちでうまいと思わせなきゃならない」
「はい」
ほんとうに腕のいい料理人は最初のひとくちだけじゃなく、最後のひとくちまで美味しく食べてもらうことに苦心するだろう。ピアノの音だって同じことだ。最初の一音がぽろんと鳴ったとき、お、と思わせるインパクトがほしい。だけど、最後まで気持ちよく鳴る音でなくてはいけない。
難しい注文だと思う。最初のひとくちで気に入ってもらえるような味、音。最後まで美味しいと思ってもらえる味、音。付き合っていくうちに、少しずつ親しんで、なかなかいいやつじゃないかと思ってもらえたらそれでいい。調律する人間がそんなうすぼんやりした人間であるのに、紡ぎ出される音が最初からぱきっと相手の心を打てるはずがない。

 

この会話からは調律師のアツい職人魂を感じました。

料理の例えが絶妙にわかりやすくマッチしていて、とても好きです。

個人の感覚に響かせるような職業というのは、モノにまでそうやって魂を込めて作られていて、一つ一つのモノが職人の作ったものなのだという意識が芽生えた気がしました。

今回のピアノの場合でいうと、ピアノを作ったわけでもなく、演奏をするわけでもない、調律する立場からこの意識を持てるというのは非常に素晴らしい感覚だなと物語りながら感心してしまいました。

 

星座の数。八十八って、ピアノの鍵盤の数と同じなんだよ


「絶対かどうかは別として、とにかく、美しい音をつくればいいだけなんだ。
ギリシア時代にはさ
学問と言えば、天文学と音楽だったんだって。つまり、天文学と音楽を研究すれば、世界が解明できるってこと。そう信じられてたんだ」
「はあ」
「音楽は、根源なんだよ、外村くん
星座の数、いくつあるか知ってる?」
「いえ」
「八十八なんだな、これが」
そういえば、小学生の頃、理科の授業で星座について習ったとき、不思議に思ったものだ。大きく見える星と星を結んで、形をつくって、名前をつける。でも、その星と星の間にも細かい砂のような星がざぁっと広がって光っている。僕たちはそれをちゃんと肉眼で見ることができた。それらを無視して、無理やり形を作ることはできない。無数の砂粒から八十八しか星座が作れないなんて、ずいぶん乱暴な話じゃないか。
そう思いながらも、少しわかる。天文学と音楽が世界の基礎だという説にうなずこうとしている。無数の星々の間からいくつかを抽出して星座とする。調律も似ている。世界に溶けている美しいものを掬い取る。その美しさをできるだけ損なわないようそっと取り出して、よく見えるようにする。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、7つの音がー正確には半音も入るから十二の音だがー抽出され、名前をつけられて、星座のように輝いている。それを膨大な音の海の中から正確に拾い上げ、美しく揃え、響かせるのが調律師の仕事だ。
「ねえ、外村くん、聞いてる?
星座の数。八十八って、ピアノの鍵盤の数と同じなんだよ」
「ああ」

本当かどうかはさておき(笑)とても綺麗な締めくくりの話でした。

星座の数と鍵盤の数の偶然の一致と、それにかけたおしゃれな話。

膨大な音の海から正確に拾い上げ〜ってところがめちゃくちゃかっこいいと思いました。

映画化もされていて、本当にオススメだと思ってるので、まだ読んでいない方はぜひ読んでみてください。